2015年10月15日木曜日

古代日本の「謎」の時代を解き明かす / 長浜浩明



副題に「神武天皇即位は紀元前70年だった!」とついています。
著者の専門は土木建築だそうで、その経験を活かして大阪の地質調査による古代の大阪の地形を元に、古事記と日本書紀を読み明かし、神武東征の時代を決定されています。

古代の天皇の寿命が長いのは、春秋年という今の年数の1年を2年と数える年数法のためとしています。
以前、別の書でもそんな話を読んだ覚えがあるのですが、その時はあまり納得できなかったような。
現代の皇室儀式で皇霊祭/神殿祭というのが春と秋にあるので、古代でも春と秋に行う祭りがあって、その祭りを何回執り行ったかで歳を数えていたのかも知れません。
これに基づいて計算された年数により修正された記紀の年表と、百済の記録(百済記、百済新選、百済本紀)を照らし合わせて、ほぼ一致することを示されています。
#というか、百済の記録に記紀と同じ事件が記載されているのなら、それを比較して年数を決定するというのは、とっくの昔にやられてていいと思うんですが...歴史学者さん達は何をしてるんだよw

邪馬台国について、魏志倭人伝には邪馬台国の人々は「鯨面文身」(顔や身体に入れ墨をしている)と書かれているのですが、大和政権にはそのような風俗が全くといっていいくらいにないので、私にはどう考えても邪馬台国と大和政権が直接的な関係があるとは思えなかったのです。
その点は、著者も同じようで、これについて色々と述べられています。
#でも、ほとんど服を着ておらず半裸であることとか、一夫多妻制であることに対しては何も述べられていないのは、片手落ちと思います。
##これらを考え合わせると、邪馬台国は台湾にあったんじゃないかという気がするが...それはそれで魏志倭人伝の記述に合わないところが出て来るし。

銅鐸に対する解釈は、かなり興味深く、これが正解かもと思わされます。
日本が古代から製鉄技術を有し、しかも大陸や半島にはない、鍛造鉄器の製造技術を持っていたというのは初耳ですが、確かに半島や大陸には日本刀の元になったような、鍛造技術が見当たらないのですよね。
蹈鞴製鉄についても、百済辺りにはあったらしい形跡はあるのですが、その後に半島を支配した新羅->朝鮮にはあったような形跡がないのですよね。
百済が滅びたときに蹈鞴製鉄技術を持った人々が日本に亡命し、蹈鞴技術を日本にもたらしたのかと思っていたのですが、本書では逆のような感じです。

古代の倭国が、半島の任那、百済、新羅から朝貢を受けており、支配権を持っていたことも強調されています。
実際、倭国には百済の王子が人質として住んでいたことや、式典がある度に百済、任那、新羅から使者が必ず来ている(けど倭国からは行っているような記事があまりない)ことなどから考えて、倭国が半島の国々の宗主国であったことは間違いないと思います。
しかしだとしたら、倭国が半島を支配していた力は何なのか?それについては、あまりはっきりとは書かれていません。
倭国が鍛造鉄器を大量生産できることから、優れた武器を大量に持っており、それによる軍事力が優れていたから...なのか?

取り敢えず、この前著を読んでみるかな。

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