シグマ、世界初のフルサイズ用“20mm F1.4”レンズ
SIGMA公式サイトの製品説明
今年に入ってから、24mm/F1.4と24-35mm/F2のARTシリーズを立て続けにリリースして、更に35mmフルサイズ用としては世界初の20mmでF1.4の大口径を実現したと。
曲率の高い非球面レンズを加工するのは非常に難しいのですが、SIGMAはそれを量産できる技術をものにしたようです。
MTF特性を見ると、映りに期待してしまいます。
超広角でグッと寄って撮るのが好きなのですが、F2.8クラスだとあまりボケないのですよね。広角だし。
標準マクロ並に寄ったときにブワっとボケる描写が好きなので、広角でも大口径が欲しいので、このレンズには期待してしまいます。
#なので、24mm/F1.4と24-35mm/F2の両方は買えないし、どちらにするかという悩みが尽きないのです。
##両方止めて、こいつに行くのが正解かなぁ。
フォクトレンダー、フルサイズEマウントレンズ「10mm F5,6 Hyper-Wide-Heliar」などを発表
Carl Zeissとの協業でのレンズ発表が相次いでいるコシナですが、独自のVoigtlaenderの方も頑張ってます。
このレンズは来年発売になるようですが、SONY FEマウントとVMマウントの両方でリリースされるようです。
35mmフルサイズで、10mmという焦点距離のレンズは、たぶん世界初のはず。
これより短い焦点距離のは円形魚眼になり、魚眼ではないのでは世界で一番短い焦点距離のはず。
ちょっと前にCanonが11-24mm/F4をリリースしていて、この11mmというのが記録物だったのですが、本レンズの登場で打ち破られたと。
まあ実際の発売まで、まだ半年くらいあるので、その時にはCanonかSIGMAかNikonが10mmからのズームレンズをリリースしているかもしれませんが...。
#SIGMA体験会で社長さんが、Canonの11-24mmで自社の12-24mmの上を行かれたのがかなり悔しかったらしく「あれは本当に大変だったと思う、よくやったと思う、あの値段でも安いと思う」を盛んに繰り返していましたし、10mm始まりの超広角ズームARTレンズを出してくる可能性もありますから。
2015年10月20日火曜日
2015年10月19日月曜日
韓国人は何処から来たのか / 長浜浩明
長浜氏の著作で、書店に置いてあるのがこれしかなかったので、ひとまず最新刊の本書を読んでみることにしました。
一部に著者の感情剥き出しの部分がありますが、おおむね韓国人(朝鮮人)のルーツは本書の述べるとおりではないかと思います。
そもそもDNA調査という動かしようのない証拠があるから、反論のしようもないと思いますが。
それと李氏朝鮮時代までの半島では、徹底的な近親相姦を繰り返して、現代韓国人のDNAは恐ろしい程に均一に揃っているのも驚きです。
現代韓国朝鮮では、同姓同族との結婚はおろか恋愛もしない、というのは日本でもよく知られていると思いますが、その習慣は実は近代に入ってからのものだそうです。
まあ半島の姓はそう多くないので、同姓同族を避けていたら、あっという間に結婚できる相手がいなくなってしまいます。
実際、古代の王家は結婚相手として相応しい地位の人が、そう多くはないので、結果として近親婚が多くなるのが常識で、中世欧州の王家などは各国の王家同士が婚姻関係を結び合って、どの王家の王子王女もいとこ同士という関係になってますしね。(それでも互いに領土を奪い合う戦争がなくならないんだけど)
古代半島の王家の近親相姦系図を示されており、天皇家はそうではないとおっしゃっているのですが、神武天皇から応神天皇辺りまではそうでも、飛鳥奈良時代になると皇后は天皇家の血筋でないとなれないので、従姉妹や叔母、姪との婚姻は珍しくなくなります。
また同父同母の兄弟姉妹は婚姻関係を結べませんが、片親が違う異父母兄弟姉妹の場合は婚姻が可能でした。(現代では認められていませんけどね)
更に藤原氏が皇后を出すようになると、天皇は藤原氏に藤原家の娘を押し付けられ続けるわけですが、その中には自分の従姉妹は当たり前で、中には叔母をと結婚することになった天皇もいたわけですから、天皇家が近親婚関係を行っていないというのは言い過ぎなのではないかと。
百済や新羅の王家が倭人である、ということは、倭人の習慣として近親婚があったから、百済や新羅王家も近親婚を行っていたとも考えられるのではないでしょうか?
韓国語のルーツについても、その成り立ちからして、こちらもおおむね御説最もかと思います。
ただ、半島の百済や新羅で倭語(古代日本語)が話されていたというのは、どうなんでしょう。
確かに日本の人々と半島の人々の間で、言葉は通じていたとは思いますが、それがそのまま半島で日本語が日常語として使われていたということにはならないと思うんですよね。
そもそも日本語にしても、列島の隅々まで共通語(標準語)が行き渡り、通訳なしで各地方の人が話し合えるようになったのは、明治の義務教育制度が始まり、更にラジオやテレビが普及してからで、江戸時代には九州辺りの人が大阪や江戸では(方言による訛りが酷くて)言葉が通じず、通訳が必要だったくらいなのです。
だから古代の半島の住人が、元々は倭人だったとしても、時を経る内に方言として言葉は変化し、別の言語と云えるくらいに変わっていたと考える方が自然だと思います。
なら何故当時の人達が半島の人達と話が通じたのかというと、単純に貴族の教養として同盟国の言葉が話せるのが当たり前だったんではないかと思うんですよね。
平安から室町時代辺りだと、僧侶は中国語が読み書きはできるのが当たり前で、室町以降は留学僧も多かったので会話も当然できる人が多かったし。
現代でも英語なら話せる人は多いわけで、当時の人がマルチリンガルであるのが普通だったという考えが出て来ないのが不思議です。
とはいえ、百済や新羅の言葉がどのような発音、文法、語彙だったのかは、資料が残っていない(残っている文書は全て漢語で書かれている)ので、想像でしか語れないのですけどね。
韓国人が信じ込んでいる壇君神話についても、熊の子孫であると自慢する点について、天皇家は神の子孫であることと比較しておられます。
でも、古事記にも神が蛇の化身だったり、鰐鮫の化身だったりの話があって、その血を皇族は引いていることになっているんだから、壇君神話を笑えるとは思えないんですが...。
真実は真実として解明すべきではありますが、本書はちょっと著者の科学的な証拠から理知的に解明を行うという姿勢から外れて、憶測や伝聞で書かれ、ちょっと感情的になっているところがあるなという感じがしました。
2015年10月18日日曜日
みずは無間 / 六冬和生
ハヤカワSFコンテストが20年の休止期間を経て再開され、新生ハヤカワSFコンテスト 第一回大賞受賞作です。
人の脳を完全にデジタル化してAIとし、宇宙探査船に搭載するというアイデアが使われています。
アイデアそのものはこれまでにもあったと思いますが、そのアイデアの活かし方は他にはなく、独特なものになっています。
でも一番のテーマは、人間の止めない欲望、ですかね。
タイトルの意味は最後まで読んで理解できるような、ストーリー構成になっており、そこまでの話の持って行き方が非常にうまくできているなと思いました。
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