学研M文庫刊 近衛 龍春 著
「三成に過ぎたるもの2つ。島の左近に佐和山の城」と詠われ、その武功を称えられた嶋左近丞清興の半生を描いたものです。なぜ生涯ではなく半生かというと、嶋左近が誕生してから筒井順慶の家臣であった頃までは、記録がほとんどなく不明だからだそうです。何しろ生年や生地もはっきりしていないらしいですから。
近衛氏は膨大な資料に基づいた、正確な記述が特徴で、そのため記録が残っておらずはっきりとしない前半生を勝手な憶測で書くことを避けたのでしょう。まあどのみち嶋左近の人生で、波瀾万丈で読んでいて面白いのは、仕えていた筒井順慶の死後、豊臣秀吉の直臣になってからでしょうし。
秀吉の死後、左近がそれまで寄騎として仕えていた石田三成に請われて家臣となるとき、三成は自分の所領1万5千石全てを嶋左近に与えてた、という話は前々から聞いていたのですが、そんなことをして他の家臣の分はどうやって賄ったのか不思議でした。が、その頃三成は豊臣の直轄地の多数を代官として治めており、そちらでの所得があったので可能だったようです。
その後、三成は佐和山の15万石を所領するのですが、ひょっとするとその時にはすぐに所領が増えることを計算に入れていたのかもしれません。
いずれにしても、そういう無茶なことをしてまで家臣に欲しがったのは、嶋左近という武将が如何に優れた武将であるかということと共に、三成は自分は文官としていくら優秀でも、戦国の世を生き抜いてきた武官達とやり合うためには、何が自分に欠けているかよく知っていたということでもあると思います。
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